<対象a>を探して

臨床ではなく、思想として

自分のラカン入門を例にして、どんな順番でラカン本を読んでいくのがいいのか考えてみた。もちろん臨床ではなく、思想としての入門。それから主要な理論についてはいくつか図解もするので、参考にしてもらえればと思う。

よく知られているように、ラカンには残念な偏見がつきまとっている。難解だと言われ続けた挙げ句に、「理解させるつもりがない」とか、構造主義やポストモダンと一緒に「もう終わってる」と言われ、そもそも精神分析自体が脳科学などの認知科学や神経生物学などに取って代わられた事実もあったりして、最終的には「ひねくれた」理論というレッテルを貼られているような状況である。

たしかにラカン自身わざと難解にしている節もあるし、そのせいで敷居も高い。またポストモダニストと共鳴している部分も往々にしてある。くわしいことは知らないが、理論としても、臨床としても、少し古くさいものなのだろう。しかしラカンが「ひねくれている」というのは、ちょっと違う気がする。正確には「ひねくれている」場所が違う、と言うべきか。

ラカンの思想の出発点は、人間と人間たちの構成する世界が元来「ひねくれている」と捉えることにある。ラカンもラカニアンもこんなことは言っていないが、個人的にはそう思う。そして理論によってその「ひねくれた」世界に切れ目を入れ、それをひっくり返して裏側から眺めるような感覚。それがラカンに触れる愉しさである。

この世界はいたるところが「ひねくれて」いる。だから今日もいつもと変わらない。

去年マリエンバートで

それから「ラカン理論のインストール」というお題目はきっと大袈裟すぎるだろう。ラカン的に言うと「インストールできたと思っているうちは、インストールできていない」ということになる。しかしそんな無情な状況に無情さを覚えないのもラカンの魅力である。

それが社会を動かすエンジンでしかないとわかっていながら、なぜわれわれは自分の欲望や嫉妬を飼い馴らすことができないのか?また病理であり宗教的なタブーであると知っていながら、なぜわれわれは倒錯や死の欲動に駆り立てられることがあるのか?そして、捕まえることができないとわかっていながら、なぜわれわれは「愛」を求めてしまうのか?

ラカンの理論が「欠如」から始まることが多いように、こういった「わからない」ことが「わからない」のを「わかる」ことが大事である。つまり「ある」という前提で見えないものもあれば、「ない」という前提だからこそ見えるものもある。そしてこれはラカンの読み方/使い方においても同じことが言える。

ラカンを読むということは、テクストを読むということではなく、テクストを創り出すこと、再構することであり、テクストの生まれてきたもともとのラカン、書かれざるラカン、負のラカンを明らかにすることなのである。
石田浩之『負のラカン』

さて入門にあたり、事前に注意すべき点は3つ。

まず1つ目は、ラカニアンによって理論の解釈が違うこと。それだけ成熟した理論だと言う証拠なのかも知れないが、素人にとっては大問題。とりあえずは自分の一番納得できるものを選ぶのがいいと思う。ラカニアンの怖いイメージは、この解釈の違いによる派閥争いに起因するが、それぞれ違う解釈で理論を発展させていることが面白いのも事実である。

2つ目は、ラカン本によって訳の表記が違うこと。1つ目の解釈の違いほど深刻な問題ではないが、例えば基本的な「A」 (Grand Autre) の表記ひとつを取っても、「<他者>」「大他者」「大文字の他者」と多様なので、注意しながら意味を追う必要がある。

3つ目は、「自我」や「無意識」や「コンプレックス」などの精神分析用語が、間違った意味で既成概念に組み込まれていること。これも垢のような感じで意外と厄介だが、いろいろ読み進めながら偏見をなくしていくしかないだろう。

またフロイトの理論に関する基礎知識、それからソシュールの言語学への理解があれば、尚よい。

生き延びるためのラカン

生き延びるためのラカン

斎藤環『生き延びるためのラカン』

まずはこれ。筆者が標榜する通り、現時点では日本一「わかりやすい」ラカン本だと思う。

「わかればわかるほどわからない」はずのラカンを「わかりやすく」というコンセプトは矛盾しているように感じるかも知れないが、大事なのは「わからない」感覚の先に、もっと甘美な「わからなさ」があるのが「わかる」ことだろう。

そして本書の取っ付きやすさは、筆者の視点がラカン的世界の外側に置かれていることにある。イタくなりがちな社会問題やサブカルチャーの引用も、ちゃんとアクセスポイントの多さになっているのが素晴らしい。

この一冊でラカン理論にすぐ頭を切り替えられるようになるわけではないが、他のラカン本を愉しむ下準備には充分。実際は他の本を数冊読んでから手にしたが、この本を最初に読んでおけば、もっと時間が短縮できたと思う。

さて、ここでRSI(現実界/象徴界/想像界)について図解でおさらいしたい。本書での映画『マトリックス』の例えがわかりやすかったので、まとめてみた。

ボロメオの結び目(現実界/象徴界/想像界)

ボロメオの結び目(現実界/象徴界/想像界)

「現実界」はハードウェアのような世界で、認識もコントロールも不可能な領域。映画では仮想現実にプラグインされている場所として描かれている。

次の「象徴界」はあのコードのみで構成された世界。つまり言葉(シニフィアン)で構成された無意識の世界であり、<他者>が存在する場所。「想像界」のプログラム部分にあたる。

「想像界」は認識が容易でコントロール可能な領域。つまり意味とイメージを含むヒューマンインタフェースにあたる部分になる。映画では現実のように感じる仮想空間として描かれていた。

『マトリックス』の世界がボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』の影響下にあるのはよく知られるところだが、ラカンの影響も少なからずあったのではないかと思わせるような設定である。(後日確認したところ、ウォシャウスキー兄弟が主要キャストに読ませたのは、ボードリヤール以外に2冊あった。1つは、ケヴィン・ケリー『ニューエコノミー勝者の条件』。もう1つもラカンではなかったが、元ラカニアンで後に『ラカンは間違っている』という著書でラカンに反旗を翻したディラン・エヴァンズの『進化心理学入門』であった。)モーフィアスの台詞に「白ウサギについていけ」というのがあったが、このアリスの「白ウサギ」は、追いかければ追いかけるほど捕らえることができない<対象a>そのものである。

それと、「象徴界」で思い出したのが、ステファン・サグマイスターによるルー・リードのポスター。<他者>は言語活動の内部に存在するが、主体である話し手の外側に存在する。

Stefan Sagmeister, poster for Lou Reed's “Set the Twilight Reeling” (1996)

Stefan Sagmeister, poster for Lou Reed's “Set the Twilight Reeling” (1996)

ジジェクによるラカン

スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド

ソフィー・ファインズ
『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』

次にオススメしたいのが、「映画ガイド」という体裁の映画。現在はDVDにもなっている。

スロベニア出身のラカニアン第一人者、スラヴォイ・ジジェクが自ら語り部として登場し、ヒッチコック、キューブリック、タルコフスキー、デヴィッド・リンチなどの映画を次々に構造分析していく。この多方面にコンテキストを発散させながら分析する独特のスタイルは、書籍にも共通するものなので、ジジェク入門としても使える映像作品だと思う。

ターゲットはかなり幅広い層に設定されているようで、精神分析用語はほとんど使われず、ラカンのラの字も出てこない。そう言われると、書籍に比べて映画のセレクションも有名どころを多く使っているようだ。

本編ではちゃんと映画のシーンが流用されており、例えるなら、コラージュ感のない『ゴダールの映画史』といった具合。またジジェクのナレーションもわざわざ映画のロケ地で撮影され、同じようなシチュエーションの演出もされていて、かなり凝っている。(そして同時に笑える。)

ちなみに音楽担当としてブライアン・イーノの名前がクレジットされてるが、電子音によって精神を逆撫でするような(ジジェクをイメージした?)テーマを1曲書いてるだけなので、ここに過度の期待をしない方がいい。

Alfred Hitchcock "Vertigo" (1958)

Alfred Hitchcock "Vertigo" (1958)

ラカンはこう読め!

スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』

続いて、シジェクによるラカン入門書。

ジジェクはラカンを解読するのではなく、ラカンが解読したような方法で語る。政治や宗教から神話やサブカルチャーまで幅広い分野から引用し、その事象の裂け目にバールを突っ込み、そこに隠れたものをハードコアに暴いていく。

曰く、「歴史的・理論的コンテクストを通じてラカンを説明するのではなく、ラカン自身を使ってわれわれの社会とリビドーの現状を説明する」。

しかし本書が本来の意味でのラカン入門書となり得るかというと、かなり疑問が残る。頻出するラカン用語に対する注釈もなく、読み終わった後「この概念って結局どうゆう意味なんだろう?」と言った疑問は残ると思う。

それでもこの本を強くオススメしたい理由は、タイトル通り、ラカンをどう読めば愉しめるかがわかるからだ。われわれの目的は理論をインストールすることだが、それ以前にそれが愉しいことかどうかはもっと重要だ。

フロイトに関して、いちばん顕著な点は、ラカンがその「フロイトに帰れ」において用いた鍵が、精神分析の領域の外に由来することである。フロイトの隠れた財宝の鍵を開けるために、ラカンは、ソシュールの言語学、レヴィ=ストロースの構造人類学、数学の集合論、プラトン、カント、ヘーゲル、ハイデッガーの哲学など、じつにさまざまな理論を援用する。(中略)
したがって最良のラカン読解法とは、ラカンの読書法をみずから実践すること、すなわちラカンとともに他者のテクストを読むことではないだろうか。
スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』

ヒッチコックによるラカン

スラヴォイ・ジジェク監修『ヒッチコックによるラカン』

32のヒッチコック作品を精神分析的視点で読み解いたテキスト。『ラカンはこう読め!』より少しだけ難解だが、ヒッチコック作品に造詣が深ければ深いほど、面白く読めるだろう。

作品分析のテキストなので仕方ないが、各章の始めには作品のあらすじがあり、丁寧にエンディングまで書かれている。つまり未見の作品はいとも簡単にネタバレしてしまう。もちろん作品を見なくてもテキストは読めるが、テキストを読んでからだと作品が楽しめない可能性もある。それを考えると、ニーズがあるかどうかは別にして、ラカニアンではなくヒッチコキアンに読まれるべき著書か。

ちなみに本作ではジジェクのクレジットが監修となっているが、主要作品はジジェクが書いており、ほとんどの作品で口出ししているので、著作じゃないからといって心配することはない。

ヒッチコック×ジジェク

スラヴォイ・ジジェク編『ヒッチコック×ジジェク』

ジジェクとヒッチコックつながりで、もう1つのジジェクによるヒッチコック本も紹介。

どちらもジジェクが監修のヒッチコック本だし、原題も同じなので、相当紛らわしいが、先ほどの「ヒッチコックによるラカン」とは別物。ちなみに原題をウディ・アレン風に訳すと、「スラヴォイ・ジジェクの誰でも知りたがっているくせにヒッチコックにはちょっと聞きにくいラカンについてすべて教えましょう」。

『ヒッチコックによるラカン』は作品ごとの章立てになっていたが、こちらはジジェクと8人の客論が自由なテーマでヒッチコックについて論じている。特に「あの人の蔑むような眼差しの中に、私の破滅が書かれているのが見える」は、ジジェクによるヒッチコック論の集大成的な内容で読み応えがある。

ここまでに紹介したジジェク関連作品において、ヒッチコックの『めまい』や『サイコ』など、引用元が同じものもあるが、作品間で文章を丸々使い回すようなことはしていないので、ダブりが気になることはないと思う。

Alfred Hitchcock "Notorious" (1946)

Alfred Hitchcock "Notorious" (1946)

このままジジェクを続けてしまうと、ラカン本=ジジェク本になってしまうので、『ラカンはこう読め!』以降は少し寄り道した方がいいかも知れない。

というわけで、次回はその他の入門書、もう少し臨床寄りのものなど、理論をさらに深掘りできそうなものを紹介したい。