ハイデガー「技術への問い」とその転回。これまでの技術論のアンインストール。

Die Frage nach der Technik

技術論の言葉選びには、実に注意が払われている。そのため特異な術語がたびたび登場し、難解な印象を与えるが、一度概念をつかんで意味を辿れば、決して複雑なことを言っていないのがわかると思う。

参考のため、以下に主要な術語の対訳を並べておく。本文は基本的に平凡社『技術への問い』の翻訳を使用している。

  • Bestand: 用象 | 在庫、貯蔵品、調達物、役立つもの
  • Entbergen: 開蔵 | 発掘、発露、露わな発き
  • Gefahr: 危険 | 危機
  • Geschick: 命運 | 運命
  • Gestell: 集立 | 立て組み、微発性
  • Herausfordern: 挑発 | 請求、取り立て
  • Her-vor-bringen: 〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉| 持ち来たらすこと
  • Verborgenheit: 伏蔵性(ふくぞうせい)| 隠蔽
  • Wahrheit: 真理、真性 | 真理
  • Wesen: 本質 | 存在

※ [原語]: [平凡社『技術への問い』訳] | [旧訳やその他の文献で使われた訳]

ポイエーシスとしての技術

われわれは技術について問い、そのことによって技術との自由な関係を準備したいと思う。関係が自由になるのは、それがわれわれの現存在を技術の本質へと開くときである。技術の本質に応答するなら、われわれは技術的なものをその限界まで経験できるようになる。
M.ハイデッガー「技術への問い」-『技術への問い』p.7

このように、「技術への問い」は、技術との自由な関係を築くことを目的にしている。

通俗的観念に従うならば、技術とは「手段」であり「人間の行為」である。「手段」や「行為」によって結果が生じるとき、必ずその手前には「原因」がある。古代ギリシアにおいて「原因」とは、「責めを負う」ことを意味していた。

ハイデガーは、アリストテレスの四原因説(質料因、形相因、目的因、動力因)を取り出し、銀の皿の技術について説明している。銀の皿は責めを負っている。「質料」としての銀に、「形相」として皿のデザインに、「目的」として供え物を乗せることに、「動力」として銀細工をする人の実現力に。それぞれが「原因」となって、初めて銀の皿は「現前」する。

だから技術とは、単に銀の皿をデザインする「手段」や「行為」ではない。技術(テクネー)にはかつて「ポイエーシス」(生成・芸術的制作)の意味が含まれていた。それは隠された物を「開蔵」(発露、発掘)する仕方であった。

制作者の心の中にあるものが誘い出され、それまで存在しなかった物がわれわれの「現前」へと呼び出されること。その「現象」が本来技術と呼ばれるものである。これがハイデガーの技術論における技術の捉え方の基礎となる。

これは「すべての技術は事物の生成に関わる」という、『ニコマコス倫理学』の技術(テクネー)論にも通じている。こうして古代ギリシアの技術(テクネー)を参照しながら、ハイデガーは問いを立て、思索を続けていく。

「集立」—— 現代技術の本質

では現代における技術とは、どんなものだろうか。

現代技術のうちに存する開蔵は一種の挑発である。この挑発は、エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せという要求を自然にせまる。
M.ハイデッガー「技術への問い」-『技術への問い』p.23

現代技術も同じように「開蔵」するものであるが、自然を挑発し、エネルギーを取り立て、後から用立てるため、在庫として隠す。これは「開蔵」の反対、「伏蔵」である。

こうした現代技術の本質を表すのに、ハイデガーは「集-立」(立て-組み、微発性)という術語を使っている。「集立」とは、訳語の通り、「引っ立て」「取り立て」「用立て」「役立て」といった、さまざまな「立て」られることの集合である。それは銀の皿を製品に変え、大量生産を可能にする。

集-立は真理の輝きと働きを塞ぎ立てる。だから、用立てへと派遣する命運は最大の危険なのである。危険なのは技術ではない。技術に悪魔的な力はない。だが、技術の本質には秘密がある。技術の本質は、開蔵の命運として、危険である。
M.ハイデッガー「技術への問い」-『技術への問い』pp.45-46

われわれは「集立」に挑発されていることに気づかず、技術を技術的な範疇で考え、自分の意志であるかのように行動する。だから危険なのだ。

「集立」は集団現象として潜在している。われわれは自立しているように感じていても、実際はまわりの人に寄りかかって立っている。

原発事故を例にとるなら、政府による正式な発表、リークされる情報、反原発、安全説、自然エネルギーを語ること、急進的な解決策、デマゴギー、ただの間違い、こうして書かれているテキストも含めた総体が「集立」である。これは善悪を問うものではなく、単なる「現象」である。

またハイデガーは「集立」を存在するものとして扱っている。ハイデガーの思想における「存在忘却」というアイロニーによれば、存在は本質の「忘却」に向かう。自らを「伏蔵」する。そしてわれわれ自らも存在しているため、「忘却」されているものを「忘却」する。垣根のように立ちはだかる「集立」を前にして、われわれは本質を見通すことができなくなってしまう。

「危険のあるところ、救うものもまた育つ」

「集立」の危険を説いた後、このヘルダーリンの詩の一節が突如引用される。この詩には、ハイデガー自らの思いが託されている。

「危険のあるところ、救うものもまた育つ」。つまり「危険」が「危険」としてそこにあれば、われわれは「救い」の光を捉えることができ、技術の「真理」を見極めることができるようになる。

先ほど「集立」とは存在であるため、自らを「忘却」させ、われわれ自身もその「忘却」を「忘却」していると言った。「危険」には、これを「転回」させる可能性がある。それは「忘却」が「忘却」としてそこにあること、「忘却」が自覚されることである。そのことによって、存在しているものの本質は、存在の内へと呼び戻される。

「危険」と「救い」の関係、その把握しづらいアイロニーを、ハイデガーは次のように表現している。

用立ての止めがたさと救うものの控えめさとは、あたかも天体の運行におけるふたつの星の軌道のように、たがいの傍らを擦れ違っていく。しかし、ふたつの星がそのようにたがいの傍らを擦れ違っていくことは、両者の近さが伏蔵されているということなのである。
技術の両義的な本質に目を向けるなら、われわれは、星々の相互関係を、すなわち星の運行の秘密を発見する。
技術への問いは、星々のそのような相互関係への問いである。そうした相互関係において、開蔵と伏蔵とが、すなわち真理としてその本質を発揮しつづけているものが、それ自体の固有性を出来(しゅったい)させるのである。(……)
われわれは、救うものからのしだいに明るくなっていく光のなかで、立ち止まって警戒するよう呼びかけられている。
M.ハイデッガー「技術への問い」-『技術への問い』p.55

ハイデガーのテキストは詩的になっていく。『ハイデガーの技術論』によれば、「天体の運行」とは占星術の言葉らしい。そして惑星の軌道は、技術の本質という存在の運動イメージである。

たしかにわれわれは、この星々が行き交う様を、「開蔵」と「伏蔵」の関係を、「危険」と「救い」の交差を、それが「転回」されるのを、目の当たりにした。原子力の安全利用という神話が事故によって「開蔵」され、パニックを防ぐなどの理由で情報が「伏蔵」され、その「伏蔵」された事実が「開蔵」される様を。われわれは用立てられ、救われ、また用立てられ、それを繰り返した。

これまでにないほど、われわれが「技術への問い」を繰り返したのは、危機的状況にあったからである。「危険」がわれわれに問いかけ、「救い」の道が照らされていたと言える。

Artist's representation of an X-ray nova (ESA)

技術論のアンインストール

技術の本質とは、「集立」だけでなく、「ポイエーシス」も含まれるのだった。そして「危険のあるところ、救うものもまた育つ」とは、ヘルダーリンによる詩の一節であった。詩的なもの、つまりポエジーであった。これは「ポイエーシス」が元になった固有名であり、芸術である。

芸術とは「言葉で表せないものを感覚や身体をとおして表現する活動」だとしばしばいわれるが、このように芸術を言語との対立関係において語る通俗的定義は不完全である。芸術とはむしろ、感覚を超えたものを感覚に媒介する行為なのである。芸術行為において、私たちは勝手気ままな自己表現を競っているのではなく、いわば死者たち——そして未だ生まれていない者たち——のまなざしの中に、みずからを置くという経験をしているのだ。芸術がたんなる娯楽ではない真剣さを伴っているのは、そのためである。基本的に娯楽は生者に、芸術は非在の者たちに向けられている。
吉岡洋「死者のまなざしの中にみずからを置くこと」-『アルテス VOL.01』p.45

ハイデガーは『存在と時間』において、「死」は経験し得ないが、終わりに向かっているのを意識することによって、全体を見渡す視点を持つことができると言っている。これはあの星々を思い描いた視点ではなかろうか。

夜空の星々が輝いているのは、そのほとんどが核融合反応によるものだ。原子力とはある意味で、人間が地上に呼び込んだ、宇宙の姿の一端である。原子力は、地球的自然をモデルにしたこれまでの芸術、これまでの言語的比喩によっては、とらえることができない。核エネルギーが私たちに垣間見せるような宇宙の姿にかんして、カントの「崇高」に相当するような概念を、私たちはまだもっていないのである。
吉岡洋「死者のまなざしの中にみずからを置くこと」-『アルテス VOL.01』p.46

ハイデガーは技術の本質を、星々の行き交う様に例えた。その星々は核融合反応によって夜空に輝いている。これは技術の外側に立たなければ、見ることができなかったものである。

一夜漬けでインストールした技術的な技術論は、「集立」の中でかき消されるだろう。だからわれわれがこれまで使っていた技術論は、アンインストールされるべきである。

「崇高」とは、私たちの感覚的理解の及ばない、つまり表象不可能な、巨大あるいは強力な自然現象を前にしたときに人間が心の中に抱く感情である。カントによれば、そこにあるのはたんなる驚異や畏怖だけではない。自然の大きさに直面した人間はひるがえって自分自身を、吹けば飛ぶような小さく弱い存在だと感じると同時に、そうした物理的な量や力を超えた存在として自覚する。それは、私たちの中に「世界はこのようにできている」という理解力だけではなくて、「世界がこうあろうとも、困っている人は助けねばならない」といった倫理的確信(カントのいう「道徳法則」)が存在するからである。
吉岡洋「死者のまなざしの中にみずからを置くこと」-『アルテス VOL.01』pp.45-46

「崇高」の概念をハイデガーの技術論に置き換えるならば、それは「危険」に対する「救い」の感覚であり、そこから放たれる「光」を捉えようとする思慮深さではないだろうか。

ハイデガーは『放下』において、「計算する思索」と「省察する思索」という言葉によって、これに近い概念を説明している。「計算する思索」は、チャンスを狙って、一つのチャンスから次のチャンスへとせかせかと飛び回る。「省察する思索」は、事柄の「意味」に思いを潜め、その「意味」に従って、「意味」を「追求」する。ハイデガーは「技術への問い」を通じて、「省察する思索」の必要性を説いた。それは問うことの仕方であった。

最後にもう一度思い出しておきたい。「技術への問い」は、技術の問題を解決するわけでも、現代技術を批判して自然に帰れと言っているわけでもない。ごく単純に、技術との自由な関係を築くことを目的にしている。